第四次川中島合戦・究極の山頂戦術「啄木鳥戦法」は本当なのか?

三国志の街亭の戦いとは、蜀軍の指揮官が、「街道に布陣し敵の行軍を止めよ」と指示を受けていたのに「兵法に拠れば高所に布陣すれば有利である」として近くの山頂に布陣したところ、そこでは水を調達する手段がなく、ふもとを包囲されて日干しとなり士気低下、脱走者も出てにっちもさっちも行かなくなり、無理矢理突破を試みるも大敗する、という戦いです。
ここから「余計なことを考えて作戦を立てておかしな方向へ行く」ことを一部の三国志界隈(主に三国志大戦界隈)では山頂布陣、または山頂と呼びます。
第四次川中島の合戦で用いられたとされる啄木鳥戦法、これが猛烈な山頂なのです。あまりにも異様過ぎて「普通、いや、普通でなくともこんなことするか……?」と思えてしまうほど。
ただ、第四次川中島合戦を伝える資料は『甲陽軍鑑』に代表される軍記物語のみで、信憑性に問題があるとされています。なので、単なるオールでっち上げのデタラメ。面白さ重視で「啄木鳥戦法」とか言ってるだけ、という可能性もあります。
それだと、あんまり面白くありません。軍記ものの記述を、軍の動きだけは信用した上で疑問を解く説がありますので、紹介したいと思います。

「第四次」川中島合戦?

川中島の合戦と呼ばれる戦いは都合5回発生していますが、第四次を除いて小競り合いや睨み合いのみで終了しています。第四次だけ激戦となり、単に川中島の合戦というと第四次のことを指します。

第四次川中島合戦開戦まで

当時、関東を治める一番大きな大義名分を持っているのは関東管領職を務める上杉氏でした。上杉氏は内輪もめをしながらも武蔵・上野に大きな勢力を持っていたのですが、伊豆から興った後北条氏に次第に圧迫され、憲政の代に至り越後に逃亡して長尾家に身を寄せ、家督を譲ることになりました。譲られたのが上杉謙信です。関東管領も合わせて継いだ謙信は、大義名分があるので北条氏を攻めます。関東の大名は漏れなく北条氏に圧迫されていたのでこれにどんどんなびき、小田原城を10万と言われる大軍で囲みました。
北条氏康はこのままだとたまらないので、同盟相手である武田信玄に援助を要請します。
信玄は信濃の支配を進めている最中で、これに対応して北信濃、上杉氏の勢力範囲ギリギリ、川中島海津城を建設し、背後を脅かしました。その頃謙信が成田さんを鞭でぶつ事件なんかも発生したと言われていて、関東諸将が撤兵しました。謙信は小田原の包囲を解いて越後へ撤兵。今度は背後を脅かされないようにと、海津城への攻撃を企図します。
つまり、謙信の目的は海津城の攻略ということになります。

上杉出兵

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8月16日、上杉は大胆にも海津城と武田本拠地の連絡線を断つように、回り込んで妻女山に1万3000で布陣します。急報を受けた武田は24日にやはり上杉の退路を断つように茶臼山に2万で布陣した、とされます*1。退路を断つ、と書きましたがこれ逆に言うと両軍とも退路を断たれる布陣ですからね。武田はまだしも、これを敵地でやる謙信はいい度胸というか、何というか……。また、謙信は信玄の着陣前に海津城を攻めることもできましたが、しませんでした。海津城千曲川を含む多重の堀で囲まれた城ですが平城で、城兵もそう多かったとは思えません。どうして攻めなかったのかは謎です。小田原城で攻めあぐねたからでしょうか?*2
いつまで経っても上杉軍が動かないので、29日に武田軍は海津城に入りました。これに対しても、上杉は反応せず。

啄木鳥戦法

動かない上杉軍への対応策を信玄は馬場信春山本勘助に求め、彼らが考えたのが啄木鳥戦法とされます。
軍を二手に分け、別働隊1万2000は妻女山に攻撃を仕掛け、本隊8000は山を降りた先の平地、八幡原で待ち受けるというもの。別働隊の攻撃を受けてたまらず山を降りた上杉軍を本隊が待ち伏せ、挟み撃ちにするという作戦です。

兵法完全無視の啄木鳥戦法

はっきり言ってこの作戦は異常です。まず、軍を二手に分けたためにどちらも上杉軍より寡兵になってしまっています。戦力を小出しにするのは一番やってはいけないことです。各個撃破されてしまいます。
次に、上杉軍が妻女山に布陣してから1ヶ月近く経っているのが問題です。布陣した以上、ただ単にぼけっと山上にいるはずがなく、それなり以上の野戦陣地が構築されていると考えるのが自然です。そんな堅固な野戦陣地に、しかも不利な低所から、それも相手より少ない兵で攻撃を仕掛けて、相手が退くことを前提に作戦なんか立てるものでしょうか?

第四次川中島合戦は上杉の退却戦だった

とする説があります。
「何らかの手段」で上杉が妻女山から撤退することを掴んだ武田は、別働隊に上杉を追撃させ、本隊は退路を断つように動いた。これならば、そもそも上杉軍は妻女山から降りることはわかっているので、「攻撃失敗で妻女山から上杉が降りなかった場合」は存在しません。
結局は、情報が漏れているのに気付いたのか、飯炊きの煙を見て気付いたのか、スパイなのか、NT 能力の発現なのか、ただ何となくなのかは知りませんが、上杉は武田が想定するよりも早く撤退を開始したため、別働隊の攻撃は空振りとなり、待ち伏せしていた武田本隊は無傷の上杉と、上杉より少ない兵で戦う羽目となり激戦となりました。コードギアスルルーシュが「戦略が戦術に負けてたまるか!」とか言っていましたが、まさに戦術で戦略の不利をひっくり返しかけた戦いとなりました。
武田の方が投入兵力が倍近く多く、しかも敵を挟み撃ちにする作戦を取れたのですから戦略的には武田の大勝利であり普通にやれば大勝利間違いなしの状況だったのが一般に引き分けと言われる結果に終わったわけですから、上杉兵がどれだけ異常な働きを見せたんだ、という話です。謙信が軍神と呼ばれるのも当然、というところでしょうか。

なんで「啄木鳥戦法」なんてでっち上げを考えたんだよ

面白いから。
という理由を排除して考えると、こんなところでしょう。
上述の「何らかの手段」とは、スパイと考えます。武田は信濃衆という信濃出身の家臣を数多く抱えていました。上杉も上杉で武田の攻撃から逃れた信濃の武将を家臣として抱えていました。つまり上杉の陣中に信濃の人間がいることはごく自然なこと。武田は信濃衆を使えば上杉の情報を得るのはそう難しいことではなかったでしょう。
しかし、後からこの軍の動きを説明・記録する際に「スパイで上杉の動きはあらかじめわかっていたのさ」とするのは、少々まずいです。なぜなら、折角有効であるスパイ作戦が通用しにくくなる恐れがあります。そこで「啄木鳥戦法」とか言い出して適当に玄妙な感じを出した……というところではないでしょうか。

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まあ、あくまで上記は一説ですので「そういう説もあるのだなー」くらいに思っていただければと。

*1:ただし、茶臼山布陣は『甲陽軍鑑』にさえ記述がないお話

*2:当時の小田原城は惣構ではなく、すごい堅城ではありません。惣構を作った=小田原城の規模を拡大したのは氏政です