異説関ヶ原

名将の采配について毎回なんか書けたらと思って。
関ヶ原の合戦は、霧の出ている関ヶ原で両軍きちんと布陣したのち、井伊・松平隊の抜け駆けで開戦したというのが定説です。
これに対して関ヶ原の合戦は東軍にとって遭遇戦だったという説がありますので、紹介しようと思います。
まず、遭遇戦という言葉の定義をきちんとしておきますね。

遭遇戦(そうぐうせん、英: meeting engagement)は、敵味方いずれか、または両方の戦闘態勢が不十分な段階で開始される戦闘である。

遭遇戦 - Wikipedia

つまり、両軍が陣を構えて会戦を行うとか、そういう戦いではなく、前進していったら思わぬところで敵軍を発見し、やむなく開戦する。そういう戦いのことです。予定通りでない開戦の仕方をした戦い、と言うこともできます。別に、深い森や霧の中を進んでいったら「うわっ、敵だ!」 敵に奇襲をかけた!(3倍ダメージ)という戦いに限ったものではありません。もうちょっと広い意味で遭遇戦という言葉を使っています。

関ヶ原前日(9月14日)の状況

ちょうどいい図面が見当たらないのでまたこれを利用させてもらいましょう。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Sekigahara.png
ご覧の通り関ヶ原は山に囲まれた盆地です。この図の中山道をもう少し東へ行くと赤坂という土地があり、そこに東軍の福島正則黒田長政など6万が陣を築いていました。その南に西軍に属する大垣城があり、そこに石田三成宇喜多秀家小西行長、島津維新など西軍主力3万5000が詰めていました。東軍陣地は大垣城に対抗するために築かれたものですが、そこへ14日、秀忠軍3万8000を待ちきれなくなった家康軍3万3000が到着します。
関ヶ原には西軍のうち毛利、長宗我部などの5万がすでに布陣しており、野戦陣地の構築も行われていたと思われます。余談ですが、14日、すでに布陣していた伊藤盛正を追い出して小早川秀秋が松尾山に布陣します。小早川秀秋伏見城攻防戦以来病と称して戦場に出ておりませんでしたがここへ来てこの挙動であり怪しさ爆発みんなのさくらやです。大谷隊が小早川に備えたのも当然のことでしょう。
これまでは東軍は大垣城封鎖のために西軍同数の3万5000を大垣城に張り付けると、残りが2万5000となり関ヶ原の西軍の半数となってしまうために西進できませんでしたが、家康の到着により西進する兵力の余裕を得たわけです。

関ヶ原前夜

西軍としてはこのまま大垣城に封殺されて東軍に関ヶ原へ進まれると、西軍が築いた陣地を無力化される、もしくは逆利用されることにもなりかねません。そうなるとたまらないので夜中に関ヶ原へ向かうこととしました。
中山道は東軍が扼しているので使えません。雨の中南宮山を南へ大回りして伊勢街道、今の名神高速道路のルートで関ヶ原へ向かいます。
東軍はこれを察知します。家康はこれをチャンスと見たと思われます。なぜならば、東軍は中山道を用いて関ヶ原へ進軍することができます。南宮山を迂回するしかない西軍より早い関ヶ原への到着が見込めます。すると何ができるか。行軍中の西軍を横合いから襲うことができます。
行軍中の軍を横から襲って勝利、というのは家康必勝のパターンで、小牧・長久手の戦いで兵力で劣勢ながらも勝利できたのはこれにより池田・森隊を撃破できたためです。東軍は、先手に福島隊などを配し、中山道を西進し始めます。

関ヶ原開戦

ところが、西軍の行軍が予想より早かったか、もしくは西軍行動開始の情報のキャッチが遅かったのか。東軍先手は霧の中、既に布陣を完了している西軍と遭遇することになりました。これでは、小牧・長久手パターンどころか長篠の武田軍パターンです。東軍は、とんでもない危地に立たされます。

小早川は、何故活躍したとされる?

関ヶ原の戦いは小早川の寝返りによって決したと言われます。それは西軍の鶴翼の構えの翼の部分を崩すことになったから、というのはそれはそうなんですけど、数だけなら家康軍の半分もありません。家康は手持ちの部隊の半分も前に出せば、爪を噛んだり、旗指物を斬ったりしなくても良かったのでは? こんなことをしたら兵に動揺を与えることを知らないわけでもあるまいし。
大体、これから全国の支配を始めるのに、何で徳川本隊の活躍が華々しく残っていないんですか? 徳川が記録を残せる立場にある癖に、目立った活躍が残っていないということは、徳川本隊はほとんど戦っていないのでしょう。何故徳川本隊は戦わなかったんでしょう? 豊臣恩顧の武将や裏切者に活躍の場を譲ってあげた? そんな馬鹿な。
これは、関ヶ原が遭遇戦であるとすると説明が付きます。
徳川本隊は行軍中で、関ヶ原本戦でほとんど戦うことができなかったのです。
福島隊などを先頭にして進んだ東軍は、関ヶ原で待ち構えていた西軍と遭遇して開戦しました。ということは、他の部隊は後ろにいた、行軍中だった、ということになります。中山道を史上空前の規模の軍隊で移動していますから、道路状況はどんどん悪くなり進軍速度が低下していくことが容易に想像されます。そして、徳川本隊は最後列となれば、到着した頃には戦闘は終盤か、悪くすると決着が付いていたのではないでしょうか。

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まあ、あくまで上記は一説ですので「そういう説もあるのだなー」くらいに思っていただければと。