官渡の戦い 2

遅くなりましたが、前回の続きです。長いですよ! 前回→http://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20100805/p1
袁紹田豊らの持久戦をすすめる進言をしりぞけ、決戦を挑むこととしました。
袁紹の弁護のためコメントすると、持久戦ではなく決戦だとしても袁紹側に分が悪かったわけではありません。
普通に戦えば、勝つ公算は高かったと言えます。というか、官渡の戦いの序盤は曹操が優位に推移していたような記述ですけど、よーく読むと実際の戦いもずっと袁紹有利に推移していたわけですし……。

白馬の戦い

一般にはこの白馬の戦いからを官渡の戦いと呼ぶようです。
袁紹曹操の支配領域の間には有名な大河、黄河が流れています。黄河は大変幅が広いため、橋を架けることができませんでした。
そのため、ところどころに津という黄河を渡るための設備を備えたポイントが用意されています。官渡の北には延津と白馬津という2つの津があります。袁紹は攻め込む側なので、この津の北岸と南岸両方を押さえることにより、軍を安全に南下させたいところです。というわけで、この津が取り合いになったわけです。
袁紹は、まず顔良に白馬城(白馬津南岸の城)を攻撃させることにしました。
この顔良の攻撃を迎え撃つのが名将の采配での第1問の場面ですね。
2月、顔良は白馬城の曹操配下劉延を攻撃します。白馬の防備は名将の采配で言っていた通り薄く、簡単に包囲されました。
4月、曹操劉備討伐から帰還します。曹操荀攸の進言に従い、即白馬を攻めるのではなく、于禁楽進を延津に派遣し、渡河の構えを見せました。(名将の采配2問目)
これに引っかかった顔良は軍の一部を延津方面に派遣してしまいます。顔良軍は分断されました。そこで、兵が少なくなった顔良軍を関羽張遼軍が急襲。関羽は敵中深く斬り込むと、顔良の首を取ってしまいます*1。これにより顔良軍は壊滅。白馬の包囲は解かれます。このあたりの年代では個人的武勇で戦闘が決着した唯一の例ではないでしょうか。
しかし。これは有名な武将が首を取られただけのことで、さほど大きな勝利ではなかったようです。というのも、曹操は白馬を維持できませんでした。曹操は勝利したはずなのに白馬の住民を退去させて、拠点を放棄しています。白馬で曹操は勝ったのは確かなんですけど、黄河南岸周辺から曹操は撤退せざるを得なかったということです。これは、曹操不利と見ていいですよね。記述は曹操優勢に見えますが、これじゃ「本当のことを言って嘘をつく」の類ですね。
これで、袁紹軍は黄河を渡ることができました。黄河はこの近辺では最大の防衛ラインなのでここを抜かれた曹操軍は相当深刻と言っていい状態です。
続けて袁紹文醜劉備チームに命じて曹操の陣を攻撃させますが、曹操軍が輜重を置き去りにして撤退したため、文醜隊は争ってこれを略奪しました。そうして組織的な行動が取れなくなったところに取って返して襲撃し、文醜隊は壊滅。文醜は首を取られ、援護が間に合わなかった劉備はそのまま撤退しました。
ですが、文醜は死んだものの、曹操軍はさらに退いています。やはりここの勝利もごく局地的なもので、全体では袁紹が有利だったと見ていいでしょう。実際、この後の陽武の戦いで曹操は出撃した兵の2〜3割を損なうという大敗を喫しています。

官渡の戦い本戦

曹操黄河の支流官渡水を防衛ラインにした官渡で防御を試みます。袁紹軍は兵を進め、官渡から官渡とボク水を挟んだ陽武というところに本陣を置き、8月頃からは官渡を囲んで様々な手段で攻撃を仕掛けました。

  • 地下道を掘って城壁を突破(公孫サン戦で用いた作戦)

 →城内に空堀を掘って対応

  • 城外に高台を作りそこから弓矢で攻撃

 →城内に高台を作り防御

  • 高台の上に櫓を作りそこから弓矢で攻撃

 →発石車で櫓を破壊
直接攻撃はこのように防いでいたものの、官渡以北は袁紹軍が自由に行動できる状態になっていたわけで、食糧庫の類も多数奪われていたと見て良いと思います。曹操軍は兵糧欠乏状態に陥ります。一方、袁紹軍にはそういった兆候は見られません。袁紹軍本拠地陽武の西、烏巣に兵糧を集積して兵站をきちんと確保していました。さすがの組織力です。
反撃の糸口も見出せずにいた曹操は弱気になり本拠地許昌を守る荀恕uに「もう帰りたい」とメールしますが「どうしてそこで諦めんだよ! 勝てる勝てる絶対勝てる! 帰ってきたらぶっ飛ばすぞ」と返事が来ます。ために、曹操は留まることにしました。
この頃、曹操の形勢悪しと見た劉辟が、許昌のさらに後方の汝南*2で反乱を起こします。袁紹劉備を汝南に派遣して、劉辟と連携して曹操軍の後方を荒らさせます。曹操曹仁を派遣してこれを追い払いますが、劉備は再度汝南に侵入して劉辟・キョウ都とともに曹操の後方を荒らしました。曹操は蔡陽を派遣しますがこれは返り討ちにされました。さらに、汝南の南西部を守る李通に袁紹は寝返り工作を仕掛け、李通の一族も形勢有利の袁紹につくべしと李通に泣いて訴えましたが李通本人は曹操の勝利を疑っておらず、使者を斬っています。
10月、袁紹の幕僚の1人、許攸が許昌への奇襲を進言しますが、これを退けられます。この頃許攸の家族が罪を犯したために処断されており、また許攸は報酬に不満を持っていたという話もありまして、ために許攸は曹操に投降します。
許攸は烏巣に兵糧が集積されていることを伝え、そこの淳于瓊が受け持つ守備隊が手薄であるとして、奇襲をかけるように進言しました。ちなみに、淳于瓊は曹操袁紹の西園八校尉時代の同僚です。
曹操軍の幕僚の多くは許攸の進言を罠ではないかと考えましたが、荀攸賈クはゴーサインを出したので、曹操は即座に決行します。
実は沮授が烏巣の守備が手薄であるとして蒋奇隊を派遣して守備を強化するよう進言していましたが、退けられています。
ここは私の独自論になりますが、なぜ袁紹がこの進言を退けたのかというと、発言力云々の面もあるのですが、それで負けてしまっては話になりません。退けたからには大丈夫だという観測があったはずで、それはおそらく、曹操の陣から烏巣までの距離が根拠です。
孫子』軍争編には「甲を巻きて趨り、日夜処らず、道を倍して兼行し、 百里にして利を争えば、すなわち三将軍を擒にせらる。勁き者は先だち、疲るる者は後れ、その法十にして一至る」とありまして、昼夜兼行で1日に100里行軍すれば戦場には1/10の兵しか到着しないし先鋒・中軍・殿軍の3将軍が捕虜になるような大敗を喫する、と言っています。
本来、あれだけ距離があり、しかも渡河もしなければならないとなれば烏巣に奇襲を掛けられるはずもないし、掛けようとも思わないはずです。しかしそういった常識をひっくり返して曹操軍は騎兵で烏巣に到着、強襲しました。
これはおそらくまったく斬新な用兵で、これまでの中国の戦争では騎兵は基本的には伝令あるいは単に「衝撃力が高い部隊」として扱われており、その速度が利用されるといっても戦場の中で活かされて、側面攻撃とか追い討ちとか退路を断つとか、そういうレベルに留まっていました。ですが、曹操はその速度を「戦場を設定する」ために利用しており、これまで戦術レベルでしか利用されていなかった騎兵の速度が作戦レベルで初めて利用されたと言っていいのではないでしょうか。ただ、この手は後述するのですが大変斬新ではありますが非常識かつ無謀でした。

曹操の烏巣奇襲を知った袁紹は献策を求めました。張コウは「曹操の軍勢は精強なので、淳于瓊は敗れるでしょう。そうすれば将軍(袁紹)の計画も破れます。すぐに救援を出しましょう」と進言しました。これに対し幕僚の郭図は「いやそれはダメです。官渡の曹操本陣を攻撃しましょう。そうすれば必ず取って返します」と進言し、張コウは「本陣には備えがあるでしょうから、攻めても落とせません。もし淳于瓊らが捕虜になるようなことになれば、われら皆、尽く虜になりますぞ」と反論します。そこで、袁紹はどうしたか。

紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻太祖營,不能下.太祖果破瓊等,紹軍潰.

『三国志』魏書張コウ伝

袁紹は「ただ」軽騎兵のみを淳于瓊救援に向かわせ、重歩兵で曹操の陣営を攻撃させたが、陥落させることはできなかった。曹操は果たして淳于瓊らを破り袁紹軍は壊滅したのである。
と読めます。
実際のところは、淳于瓊は防備が薄かったもののよく対応し、簡単には抜かれませんでした。袁紹が送った軽騎兵も接近し、曹操は挟み撃ちされる危機に陥りかけます。曹操は兵を分けて軽騎兵への備えとするよう側近から進言を受けますが、これを無視。「真後ろまで敵が迫ってから言え!」と言います。まあ、ただでさえ兵が少ない奇襲ですから兵を分けてしまっては話にもならないので、これは当然なのですが、そう言われた配下の兵士は死を覚悟して戦い、なんとか淳于瓊を撃破。烏巣の兵糧を焼き払います。
ところで、袁紹が出した援軍に関して「『ただ』軽騎兵のみ」との記述ありましたが、実際は軽騎兵も救援に間に合わなかったので、重歩兵を派遣したところで間に合わず何の役にも立たなかったと推測されます。「ただ」と記述することによって「袁紹は烏巣へ中途半端な兵力を送って撃退された。判断ミスじゃないのか」というように思わされがちですが、前文のように考えると袁紹の判断にミスがあったとは思えないのではないでしょうか。「ただ」の記述は不当に袁紹を貶めようとする表現と言えましょう。また、逆に軽騎兵で官渡城を攻撃させても城攻めの役には立たなかったはずで、この辺の記述を元にした「どっちつかずの指示をした袁紹は無能」的な言説はあまり適切でないように思えます。

ただ、この時官渡城を攻撃させた重歩兵を張コウに指揮させていたのはまずかったのかも知れません。あっさり官渡城を落とせてしまったら、自分の発言が誤りだったことになってしまいます。これではやる気も出ませんし、自分の発言が誤りだったことを突かれての郭図あたりからの讒言も怖い。結局官渡城強襲は曹洪に防がれ、淳于瓊敗北を知った張コウ・高覧は曹操に降伏します。

烏巣壊滅と、有力な武将が曹操に降伏したことが軍全体に与えたショックは大きく、袁紹軍はここで自壊してしまいます。官渡以北は完全に袁紹の支配エリアになっていたのですが、まー群集心理は恐ろしいというやつですかね。袁紹は細かい敗北はあるものの、終始有利に戦いを進めましたが、曹操の非常識かつ無謀な攻撃が1回成功したことにより敗北を喫することとなったわけです。

*1:演義だけでなく、史書三国志にも記述あり

*2:袁紹の出身地