官渡の戦い その後

袁紹が敗北したことにより、冀州の各地で反乱が多発することとなりましたが、袁紹はこれを鎮圧します。体勢を整えた袁紹は201年、倉亭で再び曹操と戦いますがまた敗れます。これにより反乱が再発。これを再度鎮圧するものの発病して202年に死去します。また、この頃汝南の劉備袁紹の敗北により今度は自分が攻撃されると聞いて劉表の下へ逃げ出しました。
実は、この時点でもまだ袁家の方が曹操より優勢だったともいいます。
袁紹は後継者を指名せず死んでしまったため、後継者争いが発生し、長男袁譚と三男袁尚に分かれてついには戦争にも発展しました。これが袁家勢力滅亡の決定打となります。これを見た曹操はすかさず仕掛けましたが、袁譚袁尚は協力してこれを防ぎます。まだまだ袁家の勢力侮りがたしと見た曹操は一旦手を引きます。すると袁譚袁尚は再び争い始め、ついには不利になった袁譚曹操に協力を求めました。応じた曹操袁尚を攻め滅ぼし、また袁譚袁譚で攻撃される理由を自分で作ってしまい殺されます。しかし、袁紹が河北に築いた基盤は確かなもので、異民族なども含め曹操に抵抗する勢力をすべて討伐し終わったのはなんと207年。官渡の戦いから7年、赤壁の戦いの前年でした。どれだけ、袁紹が優れた統治を行っていたかがうかがえます。