孫氏政権は脆弱で天下統一とか無理 無茶言うな陸遜

昨日のエントリ(id:rerasiu:20080418:p1)と関連しているかも……。
まあ成都の劉氏政権も磐石ではないんですけど、特段孫氏政権は脆弱に思えます。バランスの上にようやく存在していると言うか。わかる人には足利将軍みたいなもんですと言えばそれだけでわかっていただけると思いますが5年前の私もそう言われてもわからなかったと思いますし。
コーエー三国志とかプレイしていますと、配下武将にはどんな命令でも出せますから、君主は絶対! と思えてしまうのですけど、わりとそうでもないです。だって、いくら「俺が君主だー!」って叫んでも、その人がどうしようもない人だったり、力がなかったりしたら、誰も言うこと聞きませんよね? そうして滅んで行ったのが袁術なわけですけど。
じゃ、人を従えるためにはどうするか? 名声なり、金なりが必要です。権力ってのはそれらを基盤にして発生するものです。では名声なり、金なりを得るにはどうしたらいいか? 金でしたら辺境のトップ*1になれればそこで重税を課しまくれば手に入りますけど、多分名声は引き換えに下がりますし、重税を課し続けると生産力は落ちますから、長い目で見ると、そう収入面ではプラスにならなさそうです。
金と名声を一挙に手に入れる手は、地元の豪族や名士の協力を得ることにつきます。名士というのは豪族が学問や家柄、振る舞いなどで名声を得たものを言います。名士の協力を得れば「ああ、あの人が付き従うのだから、あのトップは優れた人に違いない」と名声を得ることができます。また地盤をしっかり持った名士や豪族の協力を得られれば、それらが影響力を持つ土地に間接的に影響を持つことができ、収入や兵士を確保できるのです。
たとえば、劉表配下の蔡瑁、カイ良カイ越あたりが名士ですね。劉表荊州の刺史としてほぼ徒手空拳で襄陽へ向かったわけ*2ですけど、蔡氏やカイ氏の協力を得ることにより兵士を得て、木っ端勢力が興亡していく中も荊州を安定させることができたのです。
今私は協力と書きました。さほど力が強くない君主に対して豪族・名士は家来ではなく協力者なのです。家来でない彼らは勿論タダで力を貸しているわけではないのです。たとえば、蔡氏やカイ氏は自分の土地を安定させるために劉表に協力しているのです。ですから、劉表が死んで、劉氏が荊州を安定させることが難しくなると、蔡瑁もカイ良もカイ越もさらに強力な曹操に降伏し、その勢力下にあろうとしたのです。不忠? 知らん。だって俺らは劉表の家来じゃないもの。大体そんな感じです。
さて孫氏の話です。孫堅は当時超一流の将軍であったと言えます。会稽の許昌*3の反乱の鎮圧、黄巾の乱での波才の撃破、荊州南部での区星の反乱の鎮圧、それに協力した零陵や桂陽の勢力の討伐など、功績と戦歴は当時随一です。勿論、その孫堅に従う勢力もあったとは思われますが、あまり強力な豪族や名士は付き従っていなかったように思います。反董卓の兵を挙げる際に特に董卓側ではない王叡とか張咨をぶっ殺して*4いるのは強力な協力者が居ないゆえの物資不足があったからという風にも考えられます。また、これは孫策が若年だからというのが大きな理由ですが、孫堅が横死してから勢力が空中分解してしまったのも協力者が不足していたからとも思われます。
ま、そういう背景もあり、孫策は父が死んでからは一から勢力の建て直しをはからなければならなくなりました。若年の上徒手空拳の孫策には協力者がほとんど居ないので、父と微妙な協力関係にあった袁術を頼り、その配下に収まります。その時、袁術の命令で陸康という名士を攻撃しています。これが良くありませんでした。
江南の地には呉の四姓というかなり強力な名士が割拠していました。四姓とは顧、朱、張、陸の四氏です。陸康はこの陸氏、陸遜もこの陸氏です。攻撃されたわけですから当然陸氏は孫策にいい感情を持つはずがありません。孫氏と陸氏の間には緊張関係があり、また四姓から見て孫氏は家格がかなり下がるので、スムースに協力を得ることができず、孫策時代はやっぱり孫堅時代のように一人のカリスマでもっているような状態であったようです。まあ、孫堅時代と違って名士中の名士である周氏*5――周瑜の協力を得ていた、というのはありますが。しかし、周氏とて呉の土地から見ると北から来た人達でしかないのですが……。
そんな状態で孫策が死んでしまったので、当然孫氏政権は崩壊の危機に陥ります。周瑜が真っ先に現れて、孫権に忠誠を誓ったので、なんとか収まりましたが。
孫権もこんな状態だと勢力を維持していくのは難しいと思ったのでしょう。201年、陸氏の長となっていた陸遜と和解し、陸遜孫権に出仕し、孫策の娘を娶っています。この年から孫権黄祖を攻めるようになっており、ひょっとしたら陸氏の協力を得ることにより外征が可能になったのかも知れません。
四姓、特に陸氏を中心とした名士は揚州ではかなり強い力を持っていて、その証拠に「陸遜孫権の大きな信頼を受けており、呉から蜀漢への外交文書は必ず陸遜の添削を受けていた」という話があります。添削とありますけど、これはどう見ても検閲です。普通臣下が主君の発行する文書を検閲するなどということはありません。それだけ陸氏は力が強大で、孫権は陸氏の意向を気にしなければいけない立場にあったということがわかります*6
すると、あとはわかりますね。陸氏ら呉の名族が地盤を持っているのは江南、江南の安定こそ一番。わざわざ危険を払ってまで自分のメリットにならない*7魏討伐なんかに積極的に乗り出す必要はないよねー、と思われたら孫権がバリバリ外征するわけにはいかないのです。孫権は天下を狙えたのに日和見日和見を重ねて何もできなかった意気地なし、ではないのです。孫権は天下を狙える立場にはなかった、こう考えるのが適当でしょう。だから昨日の陸遜(id:rerasiu:20080418:p1)もあんまり孫権をいじめてやるなって話です。

*1:ただし牧や太守のみ、刺史には公式には兵力の動員ができないので

*2:とは言え、劉表は皇統に連なる血筋である+名士層に受けのいい清流派だったので名声的にはマシ

*3:人物名

*4:どう見ても反乱。王叡は孫堅を普段から舐めていたので、自業自得的な部分はあるのですが、それにしても反乱には違いありませんし、張咨には何の落ち度もありません

*5:後漢最高位である三公を二人出しています。ちなみに袁紹さんちは四代に渡って三公を輩出

*6:他にも、孫権が張昭に「孫呉の家臣は宮中に入ると私を拝するが、外に出ると君を拝している。私は君をこれ以上ないほど尊重しているのに、君は私を人前でしばしばやり込める。これでは、国を誤ることになるではないか」と言ったという話もあります

*7:「奪った土地を名士に分ければいいじゃん」と思われるかもしれませんが、それはうまくいきません。奪った土地を安定させるためには地元名士の協力が必要になるので、江南の名士に分け与えてやる領地なんてあまり発生しませんし、できてもよりによって長江を越えての飛び地ですから統治が難しく、名士は喜ばないでしょう