上の余談

どうにも孫呉政権においては陸遜の権力が強過ぎる気がします。詳しい友人は「孫権陸遜の二重帝国みたいなもんだったと思う」とまで言います。当たっているかもしれません。
私は関羽も実は劉備の家臣ではなくて協力者のつもりでいたのかもと思ったりしています。劉備益州に、関羽荊州にいた時代はそれこそ二重帝国と言うか*1。だって、関羽自由過ぎです。同盟国のはずの呉の兵糧庫から兵糧を調達するとか、漢中と荊州から連動して北上し曹操を攻めるはずが勝手に行動を開始してますし……。劉備-関羽勢力が持つ領地が少なかったのでそれまで目立たず、普通の臣下に見えていましたが、領地を分けられるようになってはじめて外から見えるようになったと言うか。陸遜がいたのも荊州ですから、荊州がひょっとしたらそういう土地なのかも知れませんね。
話題は変わって、また孫氏ですが、呉の大事件として二宮事件というものがあります。
241年に孫権の皇太子である孫登が夭折したため、次の太子に立てられた孫和が立てられたのですが、魯王孫覇という孫権の寵愛を受けていた子供がそれをバックに後継者を狙ったため始まった内紛です。名士層は儒教的正しさを好むので孫和を推しますが、孫覇派も孫権の寵愛があるので強力でした。結局孫権は喧嘩両成敗とし孫和を皇太子から外し、孫覇を殺すのですが、両陣営に関わった人物も殺されたり罰を受けています。特に呉の四姓はいずれも罰を受けています。例えば、陸遜流罪となり流された先でさらに詰問使を派遣され憤りのあまり病を得て死にました。
張昭の話*2を考えると、孫権が名士を煙たく思っていたのはまず間違いのないところだったでしょう。すると、この二宮事件は孫権が中央集権化を行うため名士に仕掛けた罠だったのかも知れない、と思いました。これまでは孫権はもうボケちゃってどうしようもないなと思っていたのですが。とは言え、このゴタゴタもさくっとカタが付けばよかったのですがそうはならず、延々と混乱が続き政権はグダグダとなってしまったことを考えると罠だとしたらお粗末だったなあ、と思わざるを得ません。

*1:その時は劉備は帝位についていませんでしたけど

*2:孫権が張昭に「孫呉の家臣は宮中に入ると私を拝するが、外に出ると君を拝している。私は君をこれ以上ないほど尊重しているのに、君は私を人前でしばしばやり込める。これでは、国を誤ることになるではないか」と言ったという話