飛騨高山へ行ってきました

昨年は1度も無かった金曜日が休日という形での3連休ですが、今年は確か4回ほどあり暦の完成度としては高いな! と思っていたので、これは有効活用せねばなるまい、というわけで、温泉に浸かりに行くぜ! と旅行を計画していた友人の先輩達に便乗して飛騨高山へ行ってまいりました。
私が旅行に出るといえば大抵は神社とは無関係ではないわけで、今回もご多分に漏れずばっちり神社を回ってきました。
この日は飛騨天満宮日枝神社を回ってきました。

飛騨天満宮


飛騨天満宮というのは菅原兼茂と関わりの深い神社です。菅原兼茂というのは菅原道真の三男で、道真が大宰府へ左遷された際にこの兼茂も飛騨へと左遷になったのでした。最終的に兼茂は赦され都へ帰るのですが、その前に父道真が大宰府で没したことを知ると梅の木で父の像を彫りそれを都に帰る時に村人に託して祀らせたとか自分で奉じて神社を創建したとか言われます。
その後松倉城主三木自綱により社殿の再興が行われたり、高山城主金森重頼が病気回復を祈願して社殿が造営されたりしています。
広さ的にはまあ普通の神社と言ったところで、高低のない平らな神社です。知名度の割にはやや小さい印象でした。

日枝神社


日枝神社というのは比叡山にある日吉大社の祭神大山咋神を祀った神社のことです。比叡と日枝は文字が違うだけで同じことをあらわしています。大山咋神比叡山の神であるので、日枝神社は山王さまと呼ばれる場合もあります。
この高山の日枝神社は平時輔が1141年に日吉大社を勧請し砦を築いたのが始まりといいます。その後木曾義仲がこの地に攻め入った時に砦は焼け落ち社殿も灰燼に帰したわけですが、その後ずっと時代は下ってこの地を平定した金森長近が神仏への信仰が篤かった人物で、この日枝神社を再興して高山城の鎮護神としたとか。
かなり急な階段を持った神社で、高低差が激しいです。日枝神社は山王鳥居という独特の鳥居を持っている場合が多いのですが、ここには山王鳥居はありませんでした。

高山陣屋


高山陣屋と呼ばれるのは元は金森氏の屋敷であり、後に高山が幕府の直轄領となって後は代官屋敷となった建物で、代官屋敷としては日本で唯一建物が無事に残っていたとか。何でも岐阜県が新しい建物を作る余裕がなく、県庁としてそのまま使っていたため建物が取り壊されずにいたとか。
概要は高山陣屋のサイトに譲るとして、私が興味を持った点などを。
まず内部を歩いてみると気付くのが、畳の種類がいくつかあるのです。畳のふちに模様がついているもの、黒一色のもの、そして畳のふちがないもの。この畳のふちによってエリアが区切られているのですね。模様付きの部屋は代官もしくは中央から派遣された役人のための部屋。黒一色の部屋は地元役人の部屋。ふちがないのは女中用の部屋だとか。そして身分ごとに玄関も違うのでした。代官、中央役人、地元役人、女中、そして取調べを受ける側の僧侶・武士、町人、農民だとかで合計7つの玄関が。7つも玄関があると玄関だらけで屋敷としてどうなのかという感じになりそうですが庭を入れて約3000坪、建物だけでも1000坪もあるのでそんなことはないのでした。
徳川幕府の支配体制には身分制度は大変重要なものでしたから、こういったことも厳重に行っていたわけですね。