玉璽の匣

(前半部略)
董卓聯合軍が解散したので急ぎ歸省した。

都會を離れる夜行の馬車は空いてゐた。
この車輛にはくたびれた王朗がひとり乘つてゐるだけだ。
各自の歸參も落ち着いたのに今更田舎に向かふ群雄など誰も居らぬのだらう。

何と今日は寒い日だ。
車窓からの冷氣が額に頬に寒々しい。僅かに故郷の匂ひがした。何と心地良い。

連日の徹夜が祟つてすつかり寢入つてしまつた。

南陽で昔の夢を見てゐると、何時の間にか前の座席に男がひとり座つて居た。
色の淺黒い、若いのか歳をとつでゐるのか判らぬ男だな。隨分と海賊のやうな、精悍な顏だ。
こんなに空いてゐるのに、何を好んで此處に座つたものか。
つらつらそんなことを考へる。

男は匣を持つてゐる。

大層大事さうに膝に乘せてゐる。
時折匣に話しかけたりする。
眠い目を擦り、いつたひ何が入つてゐるのか見極めやうとするが、如何にも眠かつた。
珠かなにかでも入つてゐるのか。
何とも手頃な善い匣である。
男は時折笑つたりもする。

「受命于天既壽永昌」
匣の中から聲がした。
鈴でも轉がすやうな聲だつた。

「聞こえましたか」
男が云つた。轢き潰される蝦蟇のやうな聲だ。
うんとも否とも答へなかつた。夢の續きが浮かんだからだ。
「誰にも云はないでくださいまし」
男はさう云ふと匣の向きを變へ、こちらに向けて中を見せた。

匣の中には綺麗な璽がぴつたり入つてゐた。

まるで珠でゝきたやうな璽だ。勿論良く出來た摸造品に違ひない。
洛陽は大混亂だつたので僞物の玉璽をこしらへてゐたのだらう。
自分も作らうとしてゐたので、つい苦笑してしまつた。

それを見ると男はにやりと笑つて、璽を取り出し、そして底面を見せた。
「受命于天既壽永昌」
あゝ、本物だ。

何だか酷く男が羨ましくなつてしまつた。
(以下略)

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以前某所に投稿したもの。