三点リーダの件続きその2

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でもエンドユーザは全角マイナス「−」なのか全角ハイフン「‐」なのか見分けが付かないとかで使ってくるんですよ。酷いのになると長音記号「ー」まで見分けようとしない。で、文字コードではじくと「何でハイフンが使えないんだ!住所をどうやって入力しろと!ふんがふんが!」とか言うので説明に困る。

そういえば私も開発系じゃないんですけど色々聞かれることが多いんでその辺でURYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYってなること多いです! もう、ちょう困る。ちょう困るからそういう悲劇をなくすために区別しないやつには指摘していきたい! 指摘するぜ指摘するぜ指摘して死ぬぜ! むしろ死んだ。5回くらい。という感じで。ダメですか。ダメだろうなあ。

ルールを守れない人がいるからそんなルールを守らせようとするのは間違ってる! というのはそりゃ違うんじゃないの、と思いますがルールを守らせようとしてもできない人がいるんだから無駄、というのなら理解できます。
いや、今回の焦点はそこじゃなくて中黒連打は本当に許容できない、ルールから外れた行為なのか、ということですね。

コメント欄の怒左右衛門先生は

出版では…は、ー(音引き)と同じ扱いなので基本全角一文字であらわします。あと、これは出版社によりますが、…は一個ではつかいません。……と2つでつかうんですね。だから僕の日記とか書き込みは……なんですよ。

と言っていて、寸゛さんはdi:yms-zun:20050711:readerで、

そもそも「『……』は三点リーダを二つ重ねたものでなければならない」といふのは新聞社だか出版界だか印刷業界だかが自主的に定めた慣習にすぎなくて、彼らにのみ日本語の有り様を決める権利がある訣でもない。

と言っています。
そこから考えると怒左右衛門先生は出版に関わりのある方なので怒左右衛門先生のスタンスはとりあえず大正解。では私のスタンスはどうなのでしょうか?

ある業界の慣例が日本語全体に敷衍できる話なのかどうかは一度疑つてみてもよい。

だそうなので、自分は何に立脚して考えていたのかなあと考えをめぐらせてみたところ、どうもはっきりしないのでした。で、コメント欄のクレーン足りないさんのコメントですが、

を使うことに抵抗を感じている方々は度を越すとか面倒くさいとかとかではなく、・・・・・・に単純に視覚的好感を持っている方も少なくないと思いまし、加えて読んだときの……の『間(ま)』よりも・・・・・・の『間(ま)』を好む人と思います。何といいますか、……の劣化版ではなく、新しい用法としての・・・・・・を考えている……というのはちょっと違うか……うーん。

これを読んで「気持ちはなんとなくわかるけど点の打ち方で間を表すのは邪道で、もっと他の表現技法を用いて間を表すべきだ」という感想を持つにいたり、ようやく自分が(最初は)「小説を書く際の作法」みたいなところへ立脚して話をしていることに気付きました。
すると、それだけの根拠で小説など書こうとしている人や出版関係以外の人に絡むと筋違いになりかねないので、無意識に編み出したのが今日1個目のエントリだったんですけど、「問題が起きるから!」ってのは理論武装としてうまくなかったですね。
実際にこの中黒と三点リーダの取り違えで起きる問題なんて全く大したことないですし*1、何より、コメント欄のid:toriumiの人の

意地の悪い見方をすれば、そのような多くの人に許容されている事項に対し、いらぬ指摘をして問題を引き起こし、知的虚栄心を満たしている輩のほうが前述の問題よりよっぽど問題である!

という反論を許したりしてしまうわけです。というかこの突っ込み上手いなあ。参った。
今回は「小説の書き方作法」を、自分でもそれと意識せずにちゃちな理論武装をして敷衍しようとしていたようでどうもすみませんといったところなのですが、でも似たような見た目の物を似ているから同じに扱ってもいいじゃない、という発想はアスキアートと同じようなものであること*2、そしてアスキーアートはアートなので基本的に文章とは別、ということは主張し続けていきたいと思います。

*1:だからこそ「そんなことを続けていてはグダグダになるぞ」と言っていたのですが、ちょっと弱い

*2:別にアスキーアートがいけないと言いたいのではないです