二つの魏書

魏書曰:碰少時常夢上泰山、兩手捧日。碰私異之、以語荀紣。及兗州反、褚碰得完三城。於是紣以碰夢白太祖。太祖曰:「卿當終為吾腹心。」碰本名立、太祖乃加其上「日」、更名碰也。
三國志魏書程碰傳より

程碰の改名エピソードは、やっぱり三國志からのものですが、本文ではなくて注釈によるものです。
面白いのは、注釈にで『魏書』からの引用といいますが、魏書って三國志魏書そのものじゃないか?ですが魏書の他の処を調べてもその記載が見当たらない...?
ところで、この『魏書』に引用する『魏書』は一体どこの『魏書』だと聞きたいくらいです。

(ここからしばらく余談/前提説明)
三国志の本文は陳寿という人物が書き、この人の編纂方針が「怪しげな資料は基本的に切る」というものだったため、三国志は非常に客観的ではあったものの内容的には寂しめの歴史書となっていました。三国時代は混乱期ですし、その時代に実際に関わった人間が書くわけですから、普通にやっては私情などが多分に入りそうなことを考えると、この編纂方針は良いものだったと私は思いますが、これじゃつまらないと言い出した人物がいたのですね。
その人が宋の文帝で、この人は裴松之という人物に命じてもっと色々な資料を注として付けさせたのです。この際に裴松之は信憑性などは無視して*1たくさんの書物から引用を積極的に行い、現在の注付きの三国志が出来上がったわけですが、その際に魏書という書物も引用されています。
(ここから本題)
確かに三国志は魏書、蜀書、呉書の3つの書物からなる歴史書ですが、id:kuonkizunaさんもうすうす感づいていらっしゃるように、この他にも魏書という書物があったのです。こちらは王沈、竹林の七賢の一人阮籍、そして荀紣の息子荀邈により編纂されたもので、魏末期に成立しています*2。この人たちはまあこの後魏を簒奪する司馬氏の太鼓持ちみたいな人たちですから、こちらの魏書はその信憑性には疑問符がつくものとされています。
いやあしかしややこしい話ですな。他にも『魏略』、『魏都賦』、『魏武故事』、『魏末伝』、『魏氏春秋』など紛らわしい名前の書物が引用されているので注意が必要です。あと『呉書』ももう1つあります。それと『蜀記』という書物もありまして、どちらもやはり三国志注に引用されています。

*1:と言っても、怪しい書物は引用しておいてから「〜ということだが、これはありえないだろう」などとと補足はしています

*2:三国志の魏書は晋時代の成立