ドゥカー・碰とどっか行く


この「碰」という漢字の由来ですが中国は後漢王朝末期〜三国時代にさかのぼり*2、乱世の奸雄こと魏王・曹操は、ある日、自分の部下・程立が、太陽を捧げ持つ夢を見たと聴いて、「卿は、一生私についてきてくれるということだな」と感激し彼に「程碰」という名を与えた3ことです。
(引用者中略)
このエピソードが、Google で探しても、全然見つからないのでした。ひょっとして『三国志演義』ではなく、魏史(正史)での話だったかしらん、id:rerasiu さん?
そうですね、私の記憶する限りでは演義で見かけたことはないですね。ある人が三国志マニアであるかそうでないか判定するのに使えそうなエピソードだったと記憶しているのでこれは正史ネタではないでしょうか。
しかし、このエピソードが「碰」の字の発祥ではなかったと思います。私より三国志知識のある友人にも聞いたので多分間違いないです。
しかし、実際に三国志の時代に文字を勝手に作ってしまった人はいます。孫権の息子、呉三代皇帝孫休です。

詳しくはこちら→http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/sonkyuu8.html

時代が下がると武則天*1あたりも独自文字*2作ってますけど、こっちも碌な死に方していませんし、勝手に文字を作るのは色々とやばそうです。皆さんもゆめ変な文字を発明されませぬよう。

ちなみに程碰さん、日輪を捧げ持つという明るいイメージ由来の名前を持っているのにもかかわらず演義では陰湿で、十面埋伏の計という伏兵を仕掛けて敵を動揺させ、落ち着いたところへまた伏兵の繰り返しという計略で敵の総大将を敗戦の悔しさと何度も驚かされるというストレスで吐血させたり、劉備の配下になった徐庶が親孝行なので母親を人質にとって劉備と引き剥がすなどの暗いイメージの付きまとう人物です。

まあ演義曹操を悪人として描いた作品なのでその家臣である程碰がひどく描かれるのはある程度は仕方ない! と正史を見てみても「兵糧が不足したとき兵糧に人肉を混ぜたので周囲の人々からは尊敬されなかった」とか猛烈に暗いイメージの記述が出てきてしまうのでどうしようもありません。曹操の勢力が弱小であった頃から仕え功績のある人物であったのに程碰が高い地位に就けなかったのはこれが原因であるとする説もあります。後付けの名前だからでしょうか、なかなか名は体を表さないものですね。そう言えば同じ改名組の陸遜*3孫権に遜(おもね)らずに直諫して左遷させられ憤死ですし、李平*4も晩年あまり平かではありませんでしたなあ。

*1:いわゆる則天武后ですが、当時は彼女自身が帝位に就いていたわけなので后(きさき)ではありません。ですから則天武后という呼び方はあまり適当ではありません。

*2:則天文字といい、代表は「圀」。徳川光圀のクニですね。孫休と違ってこちらはある程度残っています。

*3:元は陸議

*4:元は李厳