官渡の戦い 1

西暦200年に起こった三国志における「関ヶ原」。それが官渡の戦いです。
後漢では国を13の州という行政区間に区分けしていましたが、その内4つ*1と4つ*2を支配した勢力同士が激突したのが官渡の戦いです。
赤壁の戦いなんかは8州vs1.5州くらいの戦いなので全然消化試合だし影響力もそんなでもなさそうなのがお分かりかと思います。というか赤壁の戦いはなかった説もそれなりの説得力を持って存在しています。
まあ、それはともかく。

官渡の戦い開戦まで

199年、袁紹曹操の間に挟まれ、去就を決めかねていた河内郡で内乱が発生しました。太守張楊は両勢力のどちらに付くかという問題の対立から部下の楊醜に殺されました。楊醜は曹操に降伏しようとしましたが、さらに[目圭]固(スイコ)に殺され、勢力は袁紹に帰属しました。ちょうどこの頃袁紹は易京に公孫サンを攻めており、軍隊は北に寄っていました。これを好機と見た曹操はこれに対応して河内郡を攻撃しました。[目圭]固は北上して袁紹に援軍を求めようとしましたが、曹仁の軍に追いつかれ、敗北して戦死しました。これにより河内郡は曹操の勢力下となりました。河内郡は黄河の北岸にあり、袁紹を攻撃する際の橋頭堡を曹操は手に入れたことになります。これによって曹操袁紹との対決を決意しました。8月には曹操本人が黄河を渡り袁紹軍の牽制をし、青州には臧覇を繰り返し侵入させました。12月には官渡に進駐しています。
200年1月、曹操より袁術の北上を防ぐため徐州に派遣されていた劉備が反乱を起こします。徐州の豪族は多くが劉備に呼応し兵力は数万に上りました。袁紹の参謀田豊は「この期に劉備と連合して曹操を討つべし」と具申しますが、袁紹は子供の袁尚が病気であるとして出陣を見合わせます。曹操は、袁紹の南下を恐れ劉備討伐に王忠らを派遣しますが、これは劉備に撃破されてしまいます。
曹操の勢力は北は袁紹、東は劉備、南は張繍-劉表とほぼ包囲されていたのですが、199年12月に張繍曹操に帰順ており、袁紹劉表は動かないと見た曹操は200年正月、暗殺計画を立てた董承を殺すと、自ら出陣して劉備を撃破します。劉備は敗走して袁紹の下へ逃げ込みました。曹操が白馬に帰還したのが4月。
ここへ至り袁紹曹操への攻撃を決意しますが、田豊が止めます。「もう遅いです。曹操劉備を破り本拠地は空ではなくなりました。曹操の用兵は巧みで兵が少なくても侮れません。ここは持久戦で行きましょう。2、3年締め上げれば勝つことができるでしょう」袁紹はこれに気分を害し、兵の士気を損ねたとして田豊を投獄します。もう1人の参謀、沮授も持久戦に賛成だったようですが、田豊が投獄されたので口をつぐんでいます。
……というのが一般的に認識されています。『三国志武帝紀および袁紹伝の記述を総合するとそうなります。
ところが『三国志武帝紀にこれに矛盾する記述がありまして。

二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を白馬へ派遣して東郡太守の劉延を攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣して黄河を渡ろうとした。四月、公(曹操)は北進して劉延を救援した。

袁紹曹操が戻ってくる前に攻撃できていますね。実は袁紹劉備と連携できていたという。どういうことなんでしょうね。

  1. 劉備の反乱直後は袁尚の病気で連携できなかったけど、その後出陣して、結局は連携できた(両方正しい)
  2. 歴史の敗者側である袁紹に不利な記述をしたが、うまく整合を取れ(ら)なかった

整合を取「ら」なかったのだとしたら、外部圧力で筆を曲げたものの、嘘を書いたことをよく読めば感知できるように陳寿が工夫したんでしょうね。
それはともかく、「兵を出すべきときに出さず出さんでいい時に兵を出して袁紹は滅んだ。マジ頭悪い」みたいな話は良く聞くのですが、本当に袁紹は単なる馬鹿だった、ということは少なくともなさそうですね。
とはいえ、劉備と連携しての速戦で曹操を倒せなかったことは事実。そこで田豊と沮授に持久戦をすすめられたのに却下したのも事実。では、袁紹はただの馬鹿ではないのになぜこのアドバイスを退けたのでしょうか。
田豊や沮授、審配もそうなのですが、彼らは冀州の豪族(名士)です。つまり袁紹の本拠地に大きな力を持っており、冀州支配のためには欠かせない存在です。袁紹も何かをするたびに彼らの顔色をうかがわなければならない。
これは大変面白くないし、実権がないということになります。
そこで、戦争前の非常事態を利用して田豊らの発言力を上げないようにした、ということです。
田豊らの発言を採用する→うまく行く→田豊らに袁紹はさらに頭が上がらなくなる
こうなることを袁紹は避けたかったように見受けられます。トップの力が弱かったり発言力が低かったらどうなるかというと、孫権晩年以降の呉のようになったり、日本では武田勝頼のようになってしまうわけで、結果はともかく、発言を採用しなかった動機は理解できる者ではないでしょうか。
この他にも袁紹軍には内憂がありました。袁紹の後継者が決まっていないということです。袁紹には早く生まれた順に袁譚袁煕袁尚と3人の息子がいました。長男が家を継ぐのが普通ですが、袁紹袁尚に目をかけており後継者の宣言がなされておらず、家臣は袁尚派(審配、逢紀)と袁譚派(郭図、辛評)に分裂していました。これも冀州刺史袁尚冀州豪族が結び、残りの外様メンバーと青州刺史袁譚が結んだのかも知れません。逢紀は外様なので違うかも知れませんが。
袁紹軍は戦う前からだいぶ内訌が激しい感じですね。
一方、曹操はというと。内憂より外患という感じで。
北は袁紹、南は劉表-張繍、東は劉備、南東は孫策、西は関中のごろつき*3と敵に包囲されまくりだったのです。
ところが、張繍は参謀賈クに「弱い方に味方すれば感謝されます」と説得され帰順。孫策は何か気が付いたら死んでて、劉表は動かないので劉備を討伐でき、関中方面には鍾ヨウを派遣したところ友好関係を築くことに成功し、軍馬の提供を受けるまでとなりました。
とはいえ、これでも袋叩きになる要因がなくなったというだけで、曹操の支配領域は最近になって支配したエリアが多いため、支配領域の額面上でこそ袁紹と同等ですが、実際のところ、袁紹とは国力では大きく水を空けられていました。また、動きを見せないとは言え、曹操は四方に備えを持っていなければなりません。一方、袁紹曹操に全力を傾けることができる状況にあり、官渡に動員できる兵力に大きな差がありました。
(つづき→http://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20100907

*1:曹操:エン州司隷、豫州、徐州

*2:袁紹冀州青州、ヘイ州、幽州

*3:馬騰とか韓遂とかみんな大好き旗本八旗=関中十部軍とか