昭和プロ野球すげえ

いやー私全然知らなかったんですけど、昔は凄かったんですね……。

5月3日の川崎球場でのロッテ対太平洋戦の7回、ロッテの大量リードに怒った太平洋ファンがフィールドに瓶や空き缶を大量に投げ込み、試合が中断するトラブルが発生した。あまりの暴挙に、ロッテ野手陣はヘルメットを被って守備に付き、特に三塁手有藤道世はスタンドからの「攻撃」を恐れ、三遊間に寄った守備体形を取った。この有藤に付け込み、太平洋監督の稲尾和久は三塁線へのセーフティバントを指示。一方、ロッテ監督の金田正一はこの采配に激高して野次を連発し、結局この川崎での3連戦は終始異様なムードの中で行われた。

ライオンズとオリオンズの遺恨 - Wikipedia 1973・74年 遺恨試合騒動

すげえ! 当時は何でも利用したのか!!

5月下旬、太平洋の球団専務青木一三、球団代表坂井保之が本拠地・平和台野球場の一室で緊急記者会見を開き「ロッテ・金田監督が『九州のファンは田舎者でマナーを知らない』と発言した。我々はこれに厳重に抗議します」と声明を発表した。

金やん刺激するなよ!!!

そして6月1日、両チームは太平洋側の声明以来、初めて平和台での3連戦に臨んだ。平和台には多くの観客が詰め掛け、しかも誰もが殺気立っていた。ビジター側の三塁側ロッテベンチ付近では試合前から、スタンドから観客の野次が飛ぶと金田が応酬し、物が投げ入れられると金田がスタンドに砂を投げ付け返すなど小競り合いが続いた。急遽太平洋球団は福岡県警察中央署に動員を要請。50人の警察官が駆り出された。試合中もスタンドではファンと警官・警備員との間でいざこざが頻発、フィールド内への物の投げ入れも繰り返され、金田が坂井に対し「何とかしろ!」と声を荒げる一幕もあった。しかも試合はロッテが5−2と勝利したため、かえって収拾がつかなくなってしまう。試合終了後もロッテナインは球場を取り囲んだ太平洋ファンに軟禁された形で、ホテルに帰るどころか球場から出ることすらままならなくなり、夜半近くまで缶詰に。太平洋側が急遽おにぎりの出前を頼んだほどであった。その後ロッテナインは機動隊に守られて球場を脱出し、輸送車で護衛されてようやくホテルに帰還、最悪の事態は免れた。

そして翌1974年、遺恨は更に増幅される。4月27日の川崎では、外野フライでタッチアップを試みたロッテ三塁走者・弘田澄男を、捕手・宮寺が片足を掛けるようにブロックした(走塁妨害で得点は認められた)。このラフプレーに怒った金田が宮寺に蹴りを入れると、三塁手ビュフォードが飛び掛って金田を押し倒し、両チーム入り乱れての乱闘に発展した。

使用技が確実にキックなところはさすが元投手金やん!

悪い事に太平洋側が、この際の金田とビュフォードの姿を捉えた写真を試合日程ポスターの素材に使用した上、キャッチコピーを「今日も博多に血の雨が降る!」と銘打ってしまった。

きちがいかwwwwwwwwwwwwwww

だが、その後もトラブルは止まなかった。5月23日の平和台では試合開始前から、スタンドから「金田、出て来い!」と怒号が飛ぶと、怒った金田がバットを持ってベンチ前から応戦し、客は余計に煽られてしまう

応戦すんなよ!!!!
しかしここまでは全然プレリュードであり真のショッキングはこの後!

この遺恨試合は黒い霧事件の発生以降、観客動員や財政面で苦戦を強いられていた太平洋側が、当時絶大な人気を誇っていた金田に話を持ちかけたと言われ、仲の良かった金田・稲尾両監督の出来レースだった。

まさかの展開過ぎる!!!!
昭和プロ野球恐ろしいわあ……。