渡邉先生の名士重視を念頭に置いた私的三国時代の流れ1

自分の考えの確認も含めて、渡邉先生の名士重視を念頭において三国志の流れを簡単にまとめてみます。
誤りがありましたら指摘していただければと思います。

後漢東漢)成立

前漢西漢)から王莽が簒奪し、新を興すも、現実離れした理想・回顧主義的な政治を行ったため、赤眉の乱を招き一代で滅んだ。
その後、中国を統一したのは南陽の豪族で前漢の皇統に連なる光武帝劉秀だった。

光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないよう、前漢から引き継いだ官吏任用システム「郷挙里選」に強く儒教を絡めることとした。
すなわち、「孝廉」という、父母への孝行や物事への廉正な態度を評価する項目を特に重視するようにした。
つまり、勉学に通じるといったことよりも、儒教に即した「日ごろの行いが良いこと」を重視して官吏を任用していた。
地元豪族が推挙した者が採用されるパターンが多いため、選出されるのは主に地方の豪族の子弟であり、官途を開かれた豪族は進んで後漢の支配に協力した。

後漢の衰え

後漢の皇帝はおしなべて短命で、初代、次代を除き、すべてが20歳未満で即位している。中には、生後100日で即位した者もいる。
当然、幼帝は政務を看ることができないため、別の者が代わって政治を壟断することになった。皇帝の生母の一族である、外戚である。
外戚の中にも正しい政治を志す者もいたが、梁冀など、専横を極める存在が多く、彼らはしばしば皇帝が成人し、親政を志しても実権を渡さず、政治の主導権を握り続けた。
このような場合、皇帝が外戚を排除しようとしても、周囲の人間は外戚の息がかかった人間ばかりである。安心して話ができるのは皇帝の側用人である宦官のみであった。
このため、皇帝はしばしば宦官を用い外戚と対抗させ、第11代桓帝の時代には宦官の協力を得て外戚の梁冀を誅殺ことに成功するが、その後は外戚に代わり宦官が権力を握るようになった。

官吏任用法のため、後漢の官吏・官僚は基本的に儒者であり、先祖を敬い子孫を残すことを重視する儒学からすると、子孫を残すことができない宦官は異端の存在である。

このため、外戚と結託するなどして宦官に対抗しようとする、清流派を自称する官僚のグループ*1が存在したが、宦官の逆襲に遭い、官職追放されてしまう(党錮の禁*2)。

野に下った清流派・豪族は、儒教を修めていても仕官の道を閉ざされてしまっているため、もはや後漢の支配に協力する必要がない。このため王朝の支配力は低下した。
また、清流派は身内でよく儒教を修めている者をお互いに評価し合い、優れた者を賞賛するようになった*3
この結果、名声を得た豪族を名士という。郭泰や許劭などはそういった人物評の専門家で、彼らに評価されると大きな名声を得ることができた。


外戚の政治においても、宦官の政治においても、大変汚職が横行しており、官僚が昇進するためには賄賂を贈るのが一番の早道であった。また、皇帝自らが官位を高額で販売することもあった(売官)。その賄賂や官位を購うための費用は民衆からの搾取である。
特に、売官によって中央の高位が買われた場合などはまだ良いが、地方行政の長が買われた場合は、徴税権が地方行政にあることが非常に大きな問題となる。つまり、「元を取る」ため、民衆に重税が課されるのが常であった。また「回転を良くする」ため、売官によって任官された者の任期は短く、「後のことはどうでも良い」と、まともに政務を行う者は少なかった。

このため、民衆は疲弊し、不満は鬱積し、耕地を捨てて逃散する者が多数現れ、反乱が続発した。
その中で最大のものが張角率いる宗教組織太平道による黄巾の乱である。

*1:陳蕃など

*2:官僚は徒党を組んではならないという法が存在し、それを根拠に清流派は「党人(徒党を組む人)」と呼ばれ弾圧された

*3:評価される人物は名声でランク付けされており、上から三君、八俊、八顧、八及、八厨という。官僚の高位、三公、九卿……との対比になっている