解説
解説せよという指令が知人より参りましたので先日のエントリの解説をしますが長いです。
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禰衡
あのエントリの作者と見立てた人物です。
平原出身。
学問はできたのですが、態度がでかく他人を扱き下ろすので、嫌われていたようです。
太学には多分行っていません。洛陽に行ったことがおそらくないはずです。
孔融だけは非常に彼を褒めるので、曹操は彼を招きましたが、曹操すらも散々馬鹿にするので、劉表の元へ厄介払いされました。
劉表に対しては悪口を加減したようですが、その配下にはやっぱり傲慢な態度を取ったので、讒言を受けて、これまた劉表配下である黄祖の元へ厄介払いされます。
黄祖の子供の黄射とは仲良くなるのですが、黄祖には「あんたは社の神だね。お供えや賽銭だけ取るけど、何もしない」と放言して処刑されました。
儒学
儒学というのは仁、義、礼、智、信という徳目をみんなで実行することにより、国も平和に治まるし天下も平和になりますよ、という感じに、中国春秋時代の孔子がまとめた思想体系(を学問として取り扱ったもの)です。
そんなことは今回の件ではわりとどうでも良くて。
儒学の中に目下の者は目上の者を尊重しましょうみたいな話があって、これが支配を行う上で丁度良いので後漢はこれを大いに奨励し、官職に就くためには必須のものとしました。
といった事情のため、当時の知識層は大部分が儒学を修めたもの=儒者と見ていいです。
後漢末期の儒学は、既存の儒学に関する書物をどう解釈するか、という部分がメインになっています。
ただ、孔子から何百年も経っていますので当時の書物はそのまま読めなくなっているため、翻訳作業が必要となっており、その翻訳されたものに対してさらに解釈を加えるといった複雑な状況になっている上、漢王朝の支配に都合がよくなるよう様々な形で内容がいじられているため、わりとおかしなことになっています。
清流派
古代中国の皇帝の側には宦官という身の回りの世話をする官吏いて、しばしば国を乱す元となったことはご存知かと思います。
宦官は後宮に出入りします。
後宮とは簡単に言って大奥です。
古代中国では女性の自治能力を認めていませんでしたから、後宮を管理する男性の官吏が必要になります*1。
ですが、皇帝から見ると後宮には自分の妻が居るわけで、そこに男性の官吏を置いてしまうと、不義密通が心配でしょうがありません。
なので、生殖機能を失った官吏を起用しました。これを宦官と言います。
さて、宦官は皇帝の側仕えですから、時に権力を握ってしまうわけです。これが、儒者からは非常に悪く見えます。
というのも、儒学では子孫を残すことが重視されるので、しばしば自ら生殖機能を放棄した宦官はその流れに逆らった存在に見えるわけです。
そこで、儒者は宦官を濁流と呼びました。対して、自分達を清流派と呼ぶようになります。ただ、清流派・濁流派はこの時代の言葉ではなく、後世の言葉であるとする説もあるようです。
太学
最高学府です。
兵子
軍事関係者を蔑んで言う言葉。兵隊野郎とか、それくらいの意味。
月旦
月旦評とも。
人物評価師みたいな人が後漢時代にはいたのですが、高名なのは許邵(許子将)と許靖。
曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評したとされる*2のが許邵ですが、この人は毎月の頭に人物批評を行ったので、人物批評を月旦と言います。勿論許邵と許靖は儒者です。
清談
ちょっとこれは時代が違って、魏以降の言葉。知識人による世俗を離れた脱儒教的な議論のことです。
腐れ儒者
ダメな儒者。儒学を四角四面に捉えて現実を見ない発言をする融通の利かない儒者とか、儒学を振り回すくせに実行が伴わない儒者を指して言うことが多いですが、単に自分の気に入らないことを言う儒者に投げつけられることのほうが多い気がする罵倒語です。
建安年代
後漢最後の年号。196年から220年。
kousyuku
皇叔=劉備。
叔父という言葉は、当時は一族の年長の者ぐらいの意味です。実際に劉備が献帝の叔父だったなんてことはないです。
情報が早く素早くブックマークしていますが、後で読まなさそうですよね、劉備。抜け目はないのですが……というところを表現してみました。
許靖
許靖は(忠義を重んじる儒学の)儒者の癖に自分が世話になった劉璋が滅亡しそうになると塀を越えて逃げようとして失敗して捕まるという人で、私はこの人こそ正しく腐れ儒者だと思っております。
そこで、腐れ儒者っぽい無意味に偉そうな発言をさせてみました。ちなみに、九章算術って数学書なので、儒教とまったく関係ありません。
bunjaku
文若=荀イクの字
この人って後漢の儒者大代表みたいな人なんですけど、結構無茶もやってるんですね。
例えば清流派代表みたいな感じなのに、濁流派の娘を娶っちゃって清流派内で評価下げたりとか。
そういう人なので、ちょっと乱暴な発言をさせました。
孔子が自分の道を突き進んだのはその通りです。孔子の説く儒はかたっくるしかったりめんどくさかったりで評判悪かったので、孔子は嫌になって隠棲とかしてました。荀イクと共通する部分あるんじゃないかなと。
aman
阿瞞=曹操の幼名
まんまですね。
saisyuuhei
崔州平
孔明の学友。勿論孔明が師事したシバキ(水鏡先生)のグループも儒学を学ぶグループです。
彼らはケイシュウ閥という学閥を形成していて、中央の儒学に比べると、王朝支配に都合よくいじられた部分を取り除いて、原型に近い形で解釈を行おうとしていたようです。
ryuha
劉巴
劉巴は結構有名な名士(知識人)だったのですが、劉備が大嫌いなようで、劉備が版図を広げるたびにそこから逃げ出すことを繰り返していました。
結局劉備が蜀を手に入れた時に脱出失敗したのですが、劉備も劉巴が何となく嫌だったようで家臣として招きませんでした。
ですが、孔明が劉巴をやたらに褒めるので結局は招いています。
張飛が劉巴の家に泊まった時には、劉巴は一言も口を聞きませんでした。怒った張飛から話を聞いた孔明が劉巴に事情を聞くと「何で俺が兵子なんかと話せにゃならんの?」と言ったとか。
弔問の使者に行くのがお似合いだ
禰衡の悪口オンパレードです。
正史三国志では「荀イクは弔問の使者に、趙融は厨房で客を接待するのがお似合いだ」と発言したと記録にあります。
これが三国志演義ですと、本人らと曹操の前で
「荀イクは弔問の使者、荀攸は墓守、程序宸ヘ門番、郭嘉は文章の読み上げ、張遼は太鼓叩き、許チョは牧人、楽進は詔の読み上げ、李典は書類の伝令、呂虔は刀鍛冶、満寵は酒粕喰らいが適任だ。于禁は左官、徐晃は肉屋で、夏侯惇は五体満足将軍(夏侯惇は片目がありません)、曹仁は銭取り太守(守銭奴なのは曹洪なので、そっちの誤りと思われます)、あとはただ服を着て飯を食っているだけの連中だ!」と散々に罵倒するシーンがあります。
「親が死んで三日三晩哭せない程の悲しみしか湧いてこないのは儒の理解が足りないのが悪い」
儒において親の死は大変悲しむべき出来事です。哭というのは、大声をあげて泣き悲しむことです。
rikannokei
離間の計→考案者は賈ク
賈クは色々な勢力を転々とし、どこでも的確な助言をした軍師です。
張繍配下の頃には劉表と連合したりしたこともあるので、劉表がどういう人物か知っていたと思われます。
曹操に仕えてからは寝返りの気配すら見せませんでした。そこで生涯の仲間を見つけられたのでしょう。
sonkouyuu
孫公祐=孫乾
増田に似た人とは陳羣のこと。
陳羣は徐州時代の劉備に仕えていましたが、劉備は関羽・張飛らの発言ばかりを取り上げ、あまり儒者を尊重しなかったようです。
そこで陳羣は劉備と袂を分かったと思います。
劉備を馬鹿にしていたとか、そういう記録は特にありません。
bijiku
空箱
曹操の魏公就任を巡って、曹操と荀イクの関係が悪化しました。
公という地位は、忠義を重んじる儒の考え方からすると非常識な高位であって、皇帝の一族以外が就任するべきではない、となります。この後、荀イクは病を発して死んだといいますが、自殺説もあります。
三国志演義だと、以下のようなエピソードがあります。
荀イクは病と称して出仕(出勤)しなくなりました。そこへ、曹操より見舞いの品が届きます。箱を開いてみると、中は空でした。荀イクはこう考えました。
贈り物をいただきましたが、空でしたと答える→「確かに俺は見舞いの品を入れたのに、けしからん! 荀イクを処刑せよ!」
知らんぷりして礼を述べる→「箱は空だったのに何を言っているんだ。お前は平気で嘘をつくのか! けしからん! 荀イクを処刑せよ!」
逃れられない運命と悟り、荀イクは自殺します。
求賢令
曹操が「日頃の行いとかどうでもいいので、自分が才能あると思う奴は名乗り出なさい。俺は才能さえあればそれで採用しますよ」と出したお触れ。
正直自分もこういうのの成れの果てなのであまり叩かれると不快だ
若い頃は彼も色々変なことをしていますので……。
kouso
黄祖
禰衡を殺した人です。正史の記述によればあとで後悔したらしいです。
honeyemperor
蜂蜜皇帝→袁術
4sei3kou
四世三公→四代に渡って三公(太尉、司空、司徒)を朝廷に送り込んだ家系=袁家→袁紹
情報が遅いことを表現してみました。